2ページ

 風が舞う。春と言うには不似合いの冷たい風が過ぎてゆく。風の中に紛れて雪のように

舞っているのは咲き初めたばかりの桜であろうか。

その仄白い欠片が十三夜の月を映して重みを失う様は、時に取り残されたような不安

ばかりを駆り立てる。

不意に、闇が身動いだ。闇の一角が一人の青年を象った。

限りなく、闇に近い漆黒の髪と、その黒い衣服が深淵に澱む。

その中で白いその貌だけが闇に沈むことなく際立っていた。それは「美しい」という完璧さ

ではなく「綺麗な」という脆さの垣間見える相貌。そこに映し出されている不可解な表情からは、

その胸の内に去来する物を窺い知る事は出来ない。

 ふと気が付くと、風が途切れていた。自然な停止の仕方ではなく不自然な途絶であった。

十三夜の月だけが情景を染め上げ、静寂を我がものとして振る舞っている。

そして舞い散る桜は……その仄白い欠片は舞う事も散る事も許されず、空中で凝固している

のであった。

 時の流れが止まった。

そう人を信じさせるには充分すぎる静寂。

しかしその静寂を破る者が存在した。それは静かに自らの存在を主張し始めだのだ。

まず、その個体に従属する影がまるで意志のあるもののように身動いだのだ。いや、事実

その影にはその時命が宿っていたのかも知れない。なぜなら、その個体自身はその時髪の毛

一本程の動きをさえ示してはいなかったのだから。

そして、それが始まりであった。

その個体、つまりは先の青年は急激にその表情を変え始めたのであった。

その不安げな、頼りなくも見える表情は堪えがたい絶望と狂気に縁取られた。

そしてそれに追従するかのように空気がゆらりと動いた。

それは音のない突風となった。風は彼の長い髪をとらえその表情を覆い隠した。

まるでその狂気を覆い隠すかのように。

やがて青年は闇に融けた。少なくともその瞬間、彼は闇の一部であった。

そして空気が変わった。

時は凍り付きしゃらりと幽かな音を立てた。

そしてその時には青年は既に闇の一部ではなくなっていた。その時彼は何にも属さず、

だが何かに縛られた者であった。

彼の背後の闇は白く煙っていた。闇の中に浮かんだそれは汚れのない天上の者が持つ

純白でありながら、何よりも冷たい闇のようであった。

彼は完全なる変化を遂げようとしていたのだ。

 だが、変化は止められた。自らの悲鳴に近いうめき声で。

静寂は風の音によって絶たれた。

肩で息をし、その額に疲労を張り付かせて彼は何処ともなく歩き去ろうとしていた。

「なぁ、この桜、散らしたのはお前か?」

突然彼を呼び止める者が現れた。

ゆうるりと、不思議そうに彼は振り返った。

誰も居ない空間のほうへ……





     戻る         小説トップへ         トップへ         次へ