急いで帰らなければ。
昨日は妻と喧嘩をしたのだ。今から考えると自分が悪かったのかも知れない。
そう思い、ご機嫌取りにワインを片手に帰ると妻は居なかった。
どこへ出かける、とも聞いては居なかったが、いつも私が帰る時間よりはだいぶ早い。
特に連絡も入れず早く帰ってきたのだから無理もないのかも知れない。
そう思い、一人コーヒーでも入れようかと台所に立った。家の中は片づいていた。
特に趣味もない2人の事だから、荷物も少ないし散らかりようもないのだけれど。
なにやら物足りないような気がしてふと周りを見回した。
いつもなら、帰ってくる頃には夕食の準備が始まり、食器の音や付けっぱなしのテレビの音などで
けっこう騒々しいのだけれど。
「一人で居ると静かだよな〜。」
ふと、独り言になり気がつく。何かと理由を付けて妻が外出するのはそのせいなのだと。
『人が働いているというのにその時間遊んで居るんだろう』
そう、昨日嫌みを言ったような気がする。ちょっと申し訳ないような気がして額を掻いてみる。
そうか、こんな所に一日居るのは辛いかもな。
湯気を立てるコーヒーを手にリビングに行き、テレビを付ける。ソファーに腰をかけようとしてふと思った。
ただ、待ってるよりは風呂でも溜めようか。
洗面所に行くと、なにやらいつもと違う気がして周りを見回した。
何が無いという訳ではない。
ただ、慌てて出ていったのか化粧品の戸棚が半開きになっていた。
ぱたり、と戸を締めて考える。私が帰る前に慌てて何か買い出しにでも行ったのだろうか。
ならばもうそろそろ帰る頃か?
風呂の蛇口を開きリビングに帰ろうとして電話の位置がずれているのに気がついた。
妻は、長電話をする時電話の前に椅子を持ってきて長期戦の構えをするのだ。
そうして、電話の前でメモを取ったり、お茶を飲んだりするので電話の位置がずれていく。
子機付きの電話にしてくれとせがまれたが、たいして広い家で無し、必要ないだろうとこの電話を買ったので
どうしてもそういう体勢になるのだろうが……
ああ、仕方ないなと思いながら電話機の位置を直そうと近づいて気がついた。
足下にファックス用紙が一枚。
電話機がずれていたので棚の上に収まらずに落ちたのだろうか。
そう思って拾い上げた瞬間、不思議な一文が目に入った。
『もう、我慢できません出てゆきます。』
えっ?と思い、もう一度見直す。その用紙にはパソコンでプリントアウトしたらしき文字でそう書かれていた。
『ずっと我慢してきました。私が我慢すればいいのだと思っていました。
でも限界です。もう、我慢できません。出てゆきます。』
す〜っと頭から血が下がっていくのが判った。それで居て、何が書かれているか理解が出来なかった。
周りを見回せば確かに妻は居ないのだ。頭は混乱していた。
どうしよう。そう思いながら立ち上がる事が出来なかった。ただ、座り込む事もなかったが。
中途半端な立ち膝ともちょっと違う体勢で、ただ視界に続きの文章がある事が映っていた。
そう、続きがある。どこへ行く、とかそういった事が書いてないだろうか。
大きく深呼吸をしてもう一度用紙に焦点を合わせる。気持ちばかりが焦って文字の上を視線が滑っていく。
何か、手がかりがあるはずだ、と焦る気持ちのせいで文字が理解できない。
ことん、と脇に何かが落ちた。携帯電話であった。そういえば着替えた時に背広から部屋着のポケットに
ねじ込んだような気がする。
そうか。妻の携帯に電話をすれば良いんだ。
そう思い携帯を取り上げる。電源は入っていなかった。そういえば電車に乗る時に切ったままだった。
震える手で携帯の電源を入れメモリを呼び出す。たまたまメモリのトップに妻の携帯ナンバーが出た。
慌てて、通話ボタンを押す。
だが、妻の携帯は話し中であった。……何度架けても。
仕方ないのでもう一度用紙に目を落とす。少しずつではあるが文章が頭に入ってくるようになった。
やはり書き出しは
『ずっと我慢してきました』
とある。
○